昭和44年1月20日 夜の御理解



 子孫繁盛、家繁盛のおかげを受けなければなりません、いわゆる、分限者の徳を受けなければなりません。
 子孫繁盛のおかげ、家繁盛のおかげと言うのは、今、分限者になるというこじゃありません。その、例えば、お金ならお金、物なら物、子供なら子供達の上に家繁盛子孫繁盛のおかげの頂けれる元、分限者の徳というものを受けてからのものでなかなければいけません、ね。
 そのためには、どうしても、私は子孫繁盛の元、例えば、お金をたくさん持っておるから分限者、子供がたくさんおるから子供の限者と、というのではない、そのお金が本当に、祝い、例えば、めでためでたのとこう仰る、そのめでためでたというような意味合いに於いての分限者じゃなからにゃいけない、子供でそう、どんなにたくさんあっても、どれもこれも親に心配かける、ね、頼りになるならおらないというなら、それはもう分限者の徳が受け取らんだけ、ただたくさんあるだけ、ね、お金でもそう、そのお金が本当に家の光ともなり、社会の光ともなり、信心させて頂くなら、いわば、道の光ともなるようなそれが財であって初めて分限者と言う事が言えれる。
 今朝から、朝の御祈念の後に久留米の佐田さんがお届けをされます、寒修行が始まってから、一番下の恵介君が小学校の1年生です。どうしても参ると言うて聞かん、まあ初めの間はまあ、一日、二日も参ったら子供の声じゃから、もう、いうなら、つれて参りなさいと、まあ、昼、まあいうなら、眠かろうと言う親心なんです。ところが、二日たっても、三日たっても、四日たっても、その、もう今日はあんたご無礼してから休んどかんねとお母さん達がお参りしてくるから、ちょっともう、(  ?  )その中でクスクス泣きよる、参られんきちゃないけん。そいんなことどんお参りござるなら参らんねち言うてから連れてきとるのが寒修行が始まってこの方、毎日ついてくる、わぁ一生懸命大払い本はもう、払い本を見てから一生懸命大払いをあげてる、ね。
 今朝もやっぱり、もう起すのが可愛そうだから、起さんちいうたら( ? )、僕も参るとこういう、もう毎日やけん、今日はご無礼せんのうち、( ? )、いいや参るという、ね、(    ?   )にお母さんが、あんたもう、こげんして、あの、いつまでお参りをするね、僕はね、僕はおじいちゃんになるまで参るちいう、そげんなんこついうたっちぁ、ならあんた大きくなったら嫁さんもらわにゃんならんよ、そしたら、嫁さんも一緒に参るよちいうた(笑い)、ね、ようたんではあったけれども感動したというのです。おじいちゃんになるまで僕は参るよちいう、ね、子供の、ちょいと思いつきで、ね、連れて参れというのではなくて、何か何か知らんけれどもそういう風にこの子は申しますとこういう、まあ、そげん子供のいうなりにさせておいて、それがいつまで続くそれは分からない、けれどもね、子供心にもね、そういう信心の芽生え、銘々の、お互いの子供の中にもそういう信心の芽生えが大事なんです。
 二、三日前、学校から帰ってきて、まあ、まあ今日は大変おかげを頂いたよちいうてから帰ってきた、どうしたねというたら、いつもほら、一緒に帰る何々君と、今日は、その、あることでね、仲間割れしたよちいう、その仲割るしたのがおかげ( ? )、僕はもうあれと一緒に帰ってくるけん、いつも道草くわならんという学校から帰るとけん、だから、もう道草ぐわくわんでよかったけん、仲間割れしたのがおかげじゃろうもん、ほんにそれはおかげねちいうたってお母さんがいう。ね。
 物の見方考え方でも、子供なりにでもです、本当にその一つの信心のポイントをついた所を分かっていきよる。
 ただいま、永瀬さん達が親子で参ってきた、ご承知のように、夫婦が朝の寒修行に出てくる。ところが、今日、まつ子さんが、お母さん達は朝参り、朝参りの寒修行じゃけんで、私はどうでも寒修行の間、夜参るとこういう。( ? )今日はついてきたとこういう、そこで、なら、いわば、永瀬さんの信心家庭、( ? )さんの信心家庭を一つお互いが思うてみる、見て見らなければならないということ。ね。








 もう、本当に一家を挙げて金光様、信心が中心、遠足にいくちいいや、ちゃんとお届けに行ったかと、運動会といいや、ちゃんとお願いをしてきたね、お母さんがお願いして、そげんなんこつじゃでけん、自分でお願いにいかにゃん、ね、さあーあれを買う、親先生を許しを頂いとるなら買うてやろうと言う生き方なのです、ね、しかも、なら皆さんもご承知の通りの佐田さん一家、なら永瀬さん一家の信心ぶりというものがです、内の子供はついてこんなんてん言う事が、やはりついて来ないはずだというものをね、私は思わなければいけない。
 私くしはね、今日のこと、まあ、その二つのことを今日は私聞いてもらおうと思ったんです、今晩。ね、でその中からね、なら永瀬さんの信心、佐田さんの信心を、本当に検討してみたいとこう思ったんです、それで、だいたい御教えにはどういうようなことを焦点に於いてあるだろうかとと思ったら、83節の中にある、ここんところ、分限者ということを頂きます、ここだけを。
 はぁー、こういうような生き方で子供達が信心になっていくならば、これはこれが、本当の子供分限者だなということです。なぜって、親がどこにおっても子供がどこに離れておっても、あの人は子供も時からあれだけ信心を頂いておるから安心だと、勿論、お取次ぎを頂いて起きてくること、その中の安心と言うものと同時に、子供は子供なりにあれだけの信心をしておるからという安心、ね。
 それが、これは親の代よりも子の代にという、いわゆる、子孫繁盛のおかげが頂けれる基礎とか土台と言うか、また一つの兆しを感じるでしょうが。ね、佐田さんの家においてしかり、永瀬さんの上においてしかり、ね、子供分限者と言うのは、子供がたくさんでけた、ね、ただ頭がようて、ようでけおるというようなことでは絶対あてにはならん、子供なりにも信心を頂いていく、ね、お取次ぎを頂いて、いわゆる、神様を中心に家庭中というか、子供達に至るまでが子供を神様中心になってきた時に親も安心なら、これなら分限者、子供分限者の兆しをそこに感ずる。ね。出来ていく財産においてもしかり。
 そういう信心生活の中から、やはり、一年勝り、代勝りにおかげを頂いていく( ? ) なって、私は、いわゆる分限者の徳と言うものが頂けるのだというふうに思うのです。ね。
 昨日の、青年会の講話の題、いわば、開口一番私が申しておりますことは、ね、この世で通用するものがね、あの世では通用しないものが多いぞと、この世では通用するものでも、あの世では通用しないものの方が、ことの方が多いぞと、けれども、あの世で通用するものならばこの世で、ね、あの世を通して通用するのだと。
 生神金光大神の取次ぎの働きという、その働きを受けておかげを受けていく所に金光大神はそのような、あの世でもこの世でも通用する、おかげの頂けれる道を教えられたのだというのが、それが開口一番でした。
 お互いが持っておるものが、果たしてあの世で通用するものだろうか、ね、ちゃんと神様を中心にして生まれてよきよる財産であろうか、お取次ぎを頂いて、おかげを頂いたというのではない、ね、お取次ぎを頂いて、ね、神様を中心に申し上げて、そしてから、生まれてくるところの財産で例えばあって、その財産ならばあの世で通用する、いうなら、天地の親神様の保証があって、初めて一切が生きてくるのだとあの世では。
 どんなに、これは日本銀行が保証しとるというても、ね、日本銀行ぐらいが保証しとったもの財では通用しないのだあちらでは。ね、天地の親神様のご信用と言うものが、それに裏付けになって、初めてそれはあの世でも通用する、いうならば、この世あの世を通して、こちらで分限者の徳を受けときゃ、あちらでも分限者の生活が出来ると言う事になる、ね。
 めでた、めでたの若松様よ、枝も栄える葉も繁るというのではないか、金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると仰るのは、そういう道を教えておられるのだ、そういう道を踏まずに、ただ、お取次ぎを願って、金光大神のお徳だけで受けたおかげというのは一生おかげを頂きすぎたところでそのおかげは大したことはない。場合によったら神様に借金になっとるようなもん。いわゆる、神様任せ、いうなら、神様ご中心に申し上げてのそれ、ね、そこに私は分限者の徳というのが頂けるとこう思う。
 お互いがね、どうでも一つあの、分限者の徳を受けるための信心をしなきゃいけません、ね、そのぐらいな、分限者の徳を受けると言う事になって来る時です、いわば、中途半端というか。


途中切れ


末永静行
2005年5月2日